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10月19日&20日──橋本徹のイヴェント情報

加藤和彦氏が亡くなった、とニュースで知った。詳しいことはわからないが、自殺の可能性が高いという。心よりご冥福をお祈りいたします。
実はこのところ、音楽よりも本から心に伝わってくるものが多いな、と孤愁するばかりだったのだが、神戸ディスク・デシネから先週送られてきた、年末にかけてのリリース作だという5枚のサンプルCDのおかげで、この週末はささやかな愉しい時間をすごすことができた(スウィッシーの「Rainy Days」という曲などは、最初に聴いたとき10回リピートしてしまったほど)。ディスク・デシネ主宰の丸山雅生くんは、先月カフェ・アプレミディでもDJをやってくれた僕の知り合いだが、順調な仕事ぶりでうらやましいかぎり。自分が彼ぐらいの歳の頃のことを、ふと考えてしまった。
最近はそんな感じで、ちょっとしたことから追懐の情におそわれることが多いが、好きな本を読んでいるときは比較的、気持ちを穏やかに落ちつけていられるような気がする。昨晩は明治〜昭和の科学者・寺田寅彦が書いた「懐手して宇宙見物」(みすず書房)の中の随筆“備忘録”を読んでいた。線香花火の燃え方に詩と音楽を見出し、青磁の器に“緑色の憂愁”を感じ心惹かれ、「草枕」の主人公の画家のような心の目をもった調律師になって日本中を旅したらと考える、詩想家としての寺田寅彦が僕は好きだ。とりわけ“備忘録”の冒頭は、長くなるが引用に値すると思う。
何度読んでもおもしろく、読めば読むほどおもしろさの沁み出してくるものは、夏目先生の「修善寺日記」と子規の「仰臥漫録」とである。いかなる戯曲や小説にも到底見出されないおもしろみがある。なぜこれほどおもしろいのかよくわからないが、ただどちらもあらゆる創作の中で最も作為の跡の少ないものであって、こだわりのない叙述の奥に隠れた純真なものが、あらゆる批判や估価を超越して直接に人を動かすのではないかと思う。そしてそれは、死生の境に出入する大患と、なんらかの点において非凡な人間との偶然な結合によってのみ始めて生じうる文辞の宝玉であるからだろう。
晩年の夏目漱石の「修善寺日記」もまた、僕の心の安定剤になっている。文を書くことが、日々の随想を綴ることが、自分にとって慰藉であり、安全弁であり、心の糧であればいいと願っているが、現実の僕は、ある種のいやらしさに苛まれることも少なくない。書くべきは“備忘録”あるいは“遺言”のようなものであるはずだが、僕がこのページに記しているのは、きっと多くのブログがそうであるように、ノーマン・メイラー言うところの“自分自身のための広告”にすぎず、割りきれないような苛立ちが募るときがある。純真なものはそこに宿っているのだろうか。もちろん誰もがこうしたディレンマと闘っているのだろうけれど。
そういうことを踏まえてこの[staff blog]は読んでいただけると、僕としては少し救われたような気持ちになれる。いつかこのことは書いておきたいと思っていたので、良い機会になった。今回は「仰臥漫録」に倣って、淡々と事務的かつ克明にペンを進めていこう。
まずは今週の主な仕事。J-WAVEの11/3のホリデイ特番のための「心地よい生活」をテーマにした選曲とコメント収録。12月発売の「キーボード・マガジン」フェンダー・ローズ特集のための20枚選盤とそのディスクガイド執筆。アシッド・ジャズ・レーベルの復刻CD12枚分の発注書用レヴュー原稿。年明けリリース予定の孤高のスピリチュアル・ジャズ・レーベルという切り口でのフリーダムのベスト盤と、ニーナ・シモンとホセ・フェリシアーノのフリー・ソウル・コンピの選曲(BMGからホセ・フェリシアーノ盤をぜひ、と話をいただいたので、ニーナ・シモン盤もぜひ、と逆提案したのですが、ボビー・ウーマック盤とマリーナ・ショウ盤を同時期に作ったとき以来の気に入っている組み合わせです)。女性誌「Domani」の連載コラムなど。そして忘れちゃいけない、「usen for Cafe Apres-midi」がかなりヴァージョン・アップしてリニューアルしたばかり。今回の改変で、全440チャンネル中ベスト20以内の聴取率を常にキープできるようめざしていますので、番組ホームページをご覧いただき、少しでも多くの方に放送を聴いていただけたら嬉しいです。
それではここからは、僕がDJとして参加するイヴェントのお知らせを簡単に。10/23(金)は「MUSICAANOSSA」で、10周年ということもあり、いつものレギュラー陣に加え、FPM田中知之とスモール・サークル・オブ・フレンズがゲスト。10/24(土)はJAZZ BROTHERSの竹花英二が声をかけてくれ、青山のclub everに初出演。10/25(日)はカフェ・アプレミディで待望のサンデイ・アフタヌーン・パーティー「harmony」。オーガナイザーのTakahiro Haraguchiが「この人の選曲は素晴らしい」と信じる選り抜きのDJだけを集め、6人が各1時間ずつたっぷり良い音楽をかけようという企画で、僕もとても楽しみ。フライヤーには各DJが考える“harmony classics”がコメントと共に掲載されていて要チェックだが、ここには真摯なオーガナイザーズ・メッセージを転載しておこう。
2009年、ジョー・クラウゼルはメンタル・レメディー名義で「THE SUN・THE MOON・OUR SOULS」をリリース。この曲の根底に流れる自由でスピリチュアルな精神は、「フリー・ソウル」が自由なスピリットを標榜していたことを思い起こさせます。私たちにはオールジャンルの曲がプレイされる新しいDJパーティーが必要です。そのための場所は、必ずしもクラブではなく、心地よいカフェの空間でもいいのでは? このサンデイ・アフタヌーン・パーティーには、新しい音楽に出会えるチャンスがあります。一緒に新しいパーティーを楽しみましょう。(Takahiro Haraguchi)
メンタル・レメディーは『音楽のある風景〜冬から春へ〜』にライセンスOKの知らせが届いたのも嬉しかったが、その翌週もアプレミディでは昼間にイヴェントがあって、まず10/31(土)は、以前からよくお店に来てくれている加藤紀子さんの「i-Radio」でのプログラム“lecon de a.b.c.”の10周年記念公開収録を兼ねたカフェ・ライヴ。カジヒデキ&松田岳二もライヴ・ゲストとして登場するのでお楽しみに。そして11/3(祝・火)は、名古屋から新作のリリースに合わせてp-4kが来てくれて、東京では珍しい貴重なライヴを。「usen for Cafe Apres-midi」でも密かに人気を呼んだ名曲「In A Special Way」や「My Own Place」の、あの魔法のような空気感にしびれた貴方は、絶対にお観逃しないように。僕と吉本宏のDJ、カフェ・アプレミディのパスタランチセットと共に、ゆっくりと心地よい午後をおすごしください。
最後にもうひとつ、これだけは手帳に印をつけて何としても忘れないでいただきたい、と熱くなってしまうのが、11/6(金)渋谷・CASE#00001での「Soul Souvenirs」。先日カフェ・アプレミディの元スタッフでもある宿口豪くんの店「Bar Blen blen blen」で、今いちばん心を動かされる曲はズレーマの「Wanna Be Where You Are」、なんて話をしながら豪くんの最高の選曲で飲んでいるときに、そこに居合わせたCHINTAM(Blow Up)も含め3人で90年代・渋谷レコード事情の回想で異様に盛り上がり、とことんソウル・ミュージックをかけまくるイヴェントを今こそやろうと思いがこみ上げ、フリー・ソウル15周年記念デラックス・エディション発売の私的前夜祭という名のもとに実現の運びとなったのが、このスペシャルな一夜。山下洋からYUZURUまで、僕の周りのソウル・ミュージックを本気で愛するDJが集合して、楽しみ楽しませます(もちろん有志大歓迎)。僕はかつて山下くんとCHINTAMが働いていた中古レコードショップ「Soul View」の名バイヤーだった亀田さんに捧ぐ、という感じでプレイしようかな、なんて思っています。あの素晴らしい音楽愛をもう一度、現状へのやるせない怒りや切なさもすべて込めて。

追記:話は戻りますが、もう少し寺田寅彦の名言集をお届けしたい気持ちに駆られましたので、しばしのお付き合いを。どれも座右の銘にしたいような、智と思索のロマンティックな硬骨漢らしい言葉なので。
狂ったピアノのように、狂っている世道人心を調律する偉大な調律師は現われてくれないものだろうか。(中略)いわゆるえらい思想家も宗教家もいらない。欲しいものはただ人間の心の調律師であると思う時もある。その調律師に似たものがあるとすれば、それはいい詩人、いい音楽者、いい画家のようなものではないだろうか。
西洋の学者の掘り散らした跡へ、はるばる遅ればせに鉱石の欠けらを捜しに行くのもいいが、われわれの足元に埋もれている宝をも忘れてはならないと思う。しかしそれを掘り出すには、人から笑われ狂人扱いにされる事を覚悟するだけの勇気が入用である。

10/20追記:今日のお昼、CASE#00001の名バーテンダー大場健志くんと蕎麦屋「おくむら」でせいろを食べながらスポーツ新聞を見ていたら、加藤和彦さんの葬儀に遺影と共にパネルになって飾られていたという遺書の文面が記事になっていました。「一生懸命音楽をやってきたが、音楽そのものが世の中に必要なものなのか、自分がやってきたことが本当に必要なのか疑問を感じた。もう生きていたくない。(後略)」。ふたりとも言葉を失ってしまいました。
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10月5日──橋本徹のコンピ情報

『音楽のある風景〜秋から冬へ〜』はもう聴いていただけましたか? 今回はメランコリックな女性ジャズ・ヴォーカル中心だったこともあり、前2作の圧倒的な輝きに比べると少しインパクト的に地味かな、とも思っていたのですが、HMV商品本部ジャズ・バイヤーの山本勇樹さん(まもなくリリースされる彼が選曲したコンピ『In The Sunshine』も素晴らしいです)によれば、これまで以上に好調なセールス、という話で驚いています。絶品のビートルズ・カヴァーの存在や、聴けば聴くほど、という感じの秋らしい茜色の叙情性に加え、やはり特典CD『公園通りの秋』のプレゼントが大きいんでしょうね。どうか2枚とも末永く愛聴していただけたら嬉しいです。
一方で、発売日の決定があまりに急だった影響もあるのか、もっともっと話題になるべき、と確信(熱望)してやまないのが『Mellow Voices ~ Beautifully Human Edition』。前回・前々回のこのページ、そして[web shop]のコーナーでも詳しく僕の思い入れを書きましたが、個人的にはこのひと月ほどの間、キングス・オブ・コンヴィニエンスの新作『Declaration Of Dependence』と並んで最もよく聴いているCDです。正直な話、この2枚以外のアルバムはほとんど聴いていない気さえするほどで、心が温かいときは「メロウ・ヴォイセズ」、心が疲れているときはキングス・オブ・コンヴィニエンス、という感じなのです。すでに聴いてくださった方々の感想を総合すると、やはりコリーヌ・ベイリー・レイの「Butterfly」の吸引力は絶大ですね(特に女性には)。もちろん他の曲もすべて最高ですので、このコンピが少しでも多くの心ある音楽ファンの耳に届くことを、心の底から強く祈っています。
あまりにもいろいろなことがあったような気がして、すぐに細かくは思い出せないけれど、DJやライヴでも、最近はソウル・ミュージックに心打たれる場面が多かったな、という印象が残る1か月でした。そんな気持ちを胸に、先週は11/11発売となる“フリー・ソウル15周年記念デラックス・エディション”のリマスタリング、そして書き下ろしライナーの執筆とアートワークの入稿に追われました。1994年春の最初の4枚のフリー・ソウル・コンピのリリース元だったBMGとソニーがたまたま同じ会社になったこともあり、有田ディレクターから愛情と誠意あふれるご提案をいただき、そのスペシャル・エディションが登場することになったのです。当時より許容されるCDの収録時間が増えたことや、現在は日本での発売権が移行して収録できなくなった音源が判明したこともあって、4枚で計25曲の新規収録曲が追加され、より充実したセレクションと音質のはるかな向上が実現しています(しかも各¥1,995で!)。もちろん、オリジナルCDを長年愛聴してくださっている熱心なリスナーの方の思い入れも考慮し、不必要な曲順の変更などはできるだけ差し控え、それぞれの盤が元来持っていたカラーを生かしながら、1994年頃の瑞々しい空気感を伝えられるように心がけました。詳しい解説はまた改めて書きますが、僕が新たにライナー・ブックレットに寄せた序文部分を、ここにいち早く掲載しておきます。

フリー・ソウル15周年記念デラックス・エディションに寄せて

1994年は僕にとって人生の夏の始まりだった。木々の緑は映え、強すぎる風さえ心地よかった。そして15年の月日が流れた今、2009年のある秋晴れの静かな週末、僕はあの頃のことを思い出している。
自分たちの好きな音楽──ヌーヴェル・ヴァーグの流儀に倣うなら、「発見」したグルーヴィーでメロウな70年代ソウル周辺の音楽を仲間と楽しむために、僕らは自由な遊び場を作ろうとした。それがDJパーティー“Free Soul Underground”。コンピレイションCDとディスクガイド「Suburbia Suite; Welcome To Free Soul Generation」は、その水先案内役だった。
僕は若く、何かに飢えていて、怖いもの知らずだった。いや、怖いもの知らずを装った。全く無防備なほどだったが、何よりも自分を信じていた。今となっては、「信じられた」と言い換えた方がいいかもしれない。
初期衝動、というより確信的な衝動があった。新しいスタンダードを生み出すことができる。僕らは希望に満ちていた。自分が夢中になった音楽を信じていた。既成の価値観への苛立ちや憤りさえも希望に変えた。音楽の一音一音が深く瑞々しく、身に心に染みとおってきた。僕らの感覚は研ぎ澄まされ、その心持ちを音楽に託した。それは旅立ちの季節でもあった。
僕はその頃まだ27歳で、今では200枚を越えたコンピレイションCDの選曲の仕事も10枚に満たなかった。1994年春リリースとなる最初の4枚のフリー・ソウル・コンピの選曲を手がけたのは、DJパーティー“Free Soul Underground”がスタートする前だった。振り返ってみると、そのことは、この4枚のテイストに少なからず影響を及ぼしていると思う。リスナーに無意識の意識革命を問いかけながら、その後フリー・ソウル・コンピは、90年代後半に進むにつれ、クラブ・フレンドリーな色合いを濃くしていったのだから。
僕が昨年コンパイルした『Jazz Supreme 〜 Spiritual Waltz-A-Nova』に寄せられた感想に、「これは橋本徹のレベル・ミュージックだ」というコメントがあって、自分が魂を込めた選曲に対する言葉として無性に嬉しかったのだが、あの頃の僕にとってフリー・ソウルはレベル・ミュージックだった。そして心地よさこそが反骨の最大の武器になる、と僕は考えていた。だからそのセレクションは、それまでの音楽ジャーナリズムが築いた権威主義や海外偏重傾向、マニアやサブカルチャーへの異議申し立てであると同時に、“Fun”に満ちたものでなければならなかった。カウンター・カウンター・カルチャー、というのがフリー・ソウルの思想であり、ある種のアフォリズムだったが、ただただセンスを共有できる人が増えたらいいなあ、という素朴で他愛ない願いがすべてのモティヴェイションの源だった。心地よくて何が悪い、と僕は選曲で唱えた。
初々しさも気負いも、歳を重ねてしまった今の僕には照れくさいくらいの眩しさと輝かしさが、ここにはある。曲順の組み方などを見ても、心が元気だったんだな、と正直思う。ポジティヴィティーこそがフリー・ソウルの本質だったんだな、とも。あれから15年、ポジティヴな気持ちを抱き続けるのは大変なことも知ってしまったけれど。
今日、オリジナルCDのブックレット冒頭に掲載されたライナー対談を、ずいぶんと久しぶりに読み返してみたが、僕はこの、こそばゆいような雰囲気が好きだ。何かが動き出す、素敵なことが始まる予感に満ちている。当時はフリー・ソウルという言葉がこれほど広く定着するとは予想もしなかったが、この言葉に出会ったときの印象は忘れようもない。何だろう、この胸さわぎは。心が確かに波立つように感じたのをよく憶えている。対談では少しクールに、カッコつけて発言しているけれど、居ても立ってもいられないような気持ちだった。そしてその言葉の吸引力は、歴史によって証明された。
後に「Suburbia Suite; Future Antiques」に転載した「relax」誌の“Free Soul 2001”特集や、CDマガジン『We Love Free Soul』など、これまでにも何度か、フリー・ソウルの年月を振り返る機会はあった。そのときには、こうした検証や回想は、僕には「動けば傷つき動かねば病む」多感な20代のドキュメント、言わば青春記的色彩が強かったが、今回はどういうわけか、比較的醒めた視線で見つめている。“Free Soul Underground”での思い出の数々、音楽の神様が天から降りてきたような、そんな至福にあふれた瞬間が確かにあったことさえ、いつの間にか遠い記憶になっていくのだろう。フリー・ソウルのコンピレイション群は連続したひとつの物語のように聴いてもらえたら嬉しい、と常々思ってきたが、最近はクラブ・パーティーでのDJとコンピCDの選曲を別の次元で考えている自分に気づいたりもする。個人的な心象を告白するなら、今の僕にとって選曲は、セラピーやメンタル・レメディーに近いのかもしれない。
しかし、だからこそ、こうした機会を与え続けてくださるレコード会社のディレクターの方々や、尊い時間を共に分かち合い祝福できるDJやリスナーの皆さんへの感謝の気持ちは、以前にも増して強く募る。本当にどうもありがとうございます。かけがえのないフリー・ソウルの夜明けを告げた1994年。自由なリスナーシップが支えた90年代のフェアリーテイルの始まり。ずいぶん昔のことのような気もするし、ほんのついこの間の出来事のような気もするけれど、僕の心の中にはしっかりと刻み込まれている。何より、ここに収められた音楽を聴いていると、あの頃の空気、夏草のような匂いや光のきらめきがはっきりとよみがえるのだ。多くの名曲が追加収録された15周年記念デラックス・エディションも、じっくりとお楽しみください。

2009年9月 橋本徹 (SUBURBIA)
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