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3月21日 ── 橋本徹の単行本リリース情報
 
いよいよ3/29に発売が決定した「アプレミディ・ライブラリー」単行本シリーズの第2弾、「公園通りの午後」の色校正を一昨日ちょうど戻したところで、この春の連休はただ音楽を聴き、酒を飲み、無為の時をすごしている。古い中国の酒仙たちのように、なんてね。
15年前なら何かに取りつかれたように、知らないレコードやレコード屋を探したり聴いたり、という休日だったが、最近はそういうことも割と少なくなった。
昼近くに起きて、まず考えるのは、夕飯に何を食べようか、ということ。それでも今日は午後からずっと、ウェス・モンゴメリーのアルバムばかり取っかえ引っかえ聴いていた。昨日はステファン・グラッペリだったが、明日はデイヴ・ブルーベックでも聴くのだろうか。どれも不完全なレコード・コレクションにすぎないが、こうして一日をすごしているとコンピレイションを作りたくなる。
そう、僕はときどき不遜にも思うことがあるのだ──フリー・ソウルやアプレミディのシリーズなどで、「自分の好きなアーティストのベスト盤を片っ端から選曲してしまいたい」と。彼らの評価を自分なりのパースペクティヴで塗り替え、未来に向けて更新していく感覚 。それはときに革命家の使命感のように僕の心をとらえる。静かに執念を燃やすように、自分が影響を受けた小説やリアルタイムでお気に入りの著作を次々に翻訳していく(自らの言葉とリズムに置き換えていく)ベストセラー作家の姿を、他人とは思えない。
それに比べると、本を作るというのは、僕には比較的気軽で、微笑ましくやんちゃな行為だ。「公園通りの午後」も、正月に観る駅伝のような、というよりはミュージシャンにとっての愛すべきインディーズのオムニバス盤のような、他愛なくも素敵なものに仕上がったと思う。それでもディスク紹介は300枚以上に及び、僕がこの4年間にCDのライナーなどに寄せた文章はどうにも量が多くて収まりきらず、結局近いうちにもう一冊編集することにしたけれど。
「公園通りみぎひだり」と同じように、古書のようなデザインもとても気に入っている(何年かしたら、お洒落な古本セレクトショップの棚に飾ってありそうでしょ?)。そうそう、「公園通りみぎひだり」がひと見開きに4,000字も入っているのに意外と読みやすいのは、何気なく字詰めに対する気くばりが効いたNANAのアートワークの妙のおかげ(感謝!)。まあ中身の方は、と言えば、これまでに僕が作った中でも最も品のない一冊ですが……、なんて。でもさっそく買ってくださった多くの皆さん、本当に心からありがとう。特に昨晩ジョージィ・フェイム&ベン・シドランを一緒に観た山下洋から今夜送られてきた感想には、不覚にも涙、でした。
品がないと言えば(もちろん誉め言葉です)、今週は新しく出版された小西康陽さんのコラム集「ぼくは散歩と雑学が好きだった。」も読んだ。NANAで「公園通りの午後」の入稿作業をしているときに、小野英作から「公園通りみぎひだり」は「小西さんの本と発売日を合わせたの?」なんて訊かれて遅ればせながら情報に疎い僕はビックリ。恐れ多いというか、とんでもないです、むしろ知っていればタイミングをずらしたはず。さっそく本屋に駆けつけました。
前作「これは恋ではない」を初めて見たときは、8割方読んだことのある文章で(中にはセンテンスごと暗記してしまっているものも少なくなく)、自分が若い頃に小西さんから受けた影響に感慨深くなったが、今回はその比率が逆転している。というか、記憶にあるものが20本に1本もなくて、逆に感慨深くなる。
前半はやはりとても好きな文章が多い。特に大人向けの媒体(「サードエイジスタイル」とか)に書かれたと思しき原稿はたまらなく好きだ。後半はちょっと“ヴァラエティブック”というコンセプトにこだわりすぎているのでは(なんて、厚かましいですね)と感じたが、こういうスタイルが本当に心の底から好きなんだろう。僕がときどき小西さんの過剰なまでのエネルギー(と毒)についていけないだけで。まあ好みの違いと言えばそれまでだけど、僕は昔から小西さんの文章は好きなものと嫌いなもの(というか厭らしく感じるもの)が両極端なのだ。好きなものは瞬時に丸暗記してしまうほど愛しているし、嫌いなものはひどく憂うつな気分(鈍い怒りのような感情)に誘う。書いている当人はどんなものなのだろうか。
そんなことを考えていたら、偶然としか言えないタイミングで、「columbia*readymadeのオフィシャル・サイトをリニューアルするので、定期的に原稿を書いてほしい」という電話がかかってきた。世の中フシギなもんですね。すぐに「レディメイドの御用コメンテイターの橋本徹です」という書き出しで始めようと、大人げないアイディアを思いついたが(意外とこういう人間なんです)、その後に送られてきた小西さんの企画書(というかメッセージ)が真摯に熱くて、取りやめることにした。考えてみればこのウェブサイトには、それこそレディメイドの御用コメンテイターが日替わりで書き手になって、ノーギャラで寄稿するのだろうけど、そういうことを踏まえても、音楽を取り巻く状況がどんどん悲惨になっていく中で、自分たちの好きなものを守ろうというアクションに一票を投じたい、と素直に心を動かされたのだ。
小西さんに関しては正直、思うところがいろいろあるし、アンビヴァレントな感情は尽きない。僕は小西康陽は大好きだが、その取り巻き(の腰が引けた小賢しいおべんちゃらなど)は大嫌いなのかもしれない。今はいい仲間に恵まれているようだけど、小西さんとほどよい関係を長く保ち続けていくのが至難の技なのは、ピチカート・オールド・スクーラーの僕が言わずとも歴史が証明している ── 小西康陽は王様なのだから。小西さんにとって「SUB」第4号“情報のカタログ〈The Message Is The Medium〉”が理想の雑誌だと知ったが(それは彼が作るものを見てもよくわかる)、僕は今回の単行本シリーズで「SUB」第5号“アンファンテリブル〈恐るべき子供たち〉”にインスピレイションを受けている(ふたりの気質の違いを理解してもらえるだろうか)。この話はひどく興味深いテーマでもあるので、また改めて書く機会を設けよう。
厚かましすぎる話がずいぶん長くなってしまった。厚かましいついでに最後にひとつ。「ぼくは散歩と雑学が好きだった。」はコメントや対談やブログ風が続く後半は僕には結構きつかったが(それでも植草甚一の本の何倍も好きだし、2,415円出してこの本を買ったことを後悔していない)、感傷的な日記のパートのエンディングを真夜中に読んで、涙がこぼれそうになった ── 「一日中、小さな音でレコードを聴く生活。読書をして、何か食べて、倹約する生活。美しい音楽を聴いて、想い出に生きて、ときどき涙を流したりする生活」。 ── オレのことじゃないか、と呟いてしまった自分は、本当に厚かましい男だなあ。
でも、こういう小西さんが好きなのだ。
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